開けてはならない扉を開けたのは誰か?-災害の美談が覆い隠す「子どものシェルター」という原則
はじめに─なぜこの「美談」を素直に喜べないのか?
まずは、専門家として記事を書くべきなのに、私の属性を書くことをお詫びしたい。
私の父方の実家は熊本県であり、親戚を訪ねて八代市にもよく足を運んできました。10年前の熊本地震で私自身も叔母の家の震災泥棒、押し売り販売の被害にあったことの対応などをしてきました。そしてまた熊本にて起こってしまった今回の震災において、この児童養護施設の美談報道は、なんだか苦しく感じました。断水が続くなかで、被災した人々が久しぶりに湯につかり「大の字になって寝られる」と言ったという声(日本テレビ, 2026)をみれば、あの辺りは旧家が多く、地震で一発で水はアウトだなと思うし、今回の児童養護施設のように井戸を持っていて(メンテナンスもしていて)使える状況の家も多くもないことは分かります。そして、何日もお風呂に入れない状況の苦しさも分かります。そのようなこともあり、本論を執筆することに、ためらいがあるのは事実です。困っている人を助けた行為そのものを、後ろから撃つつもりは、まったくありません。
それでも私が書くのは、児童福祉の研究者の端くれとして、この報道が「美談」とされていくことに、危うさを感じるからです。美談は、思考を止めます。「良いことをしたのだから、いいではないか」という空気は、そこで何が検討され、何が検討されなかったのかを、見えなくしてしまいます。今回、私が問いたいのは、支援した人々の善意ではありません。その善意が向かう先に、本来いちばん守られるべき子どもたちがいたのか?、という一点です。そのため、個人ではなく、今回はすべて固有名詞を書かないで執筆しました。