開けてはならない扉を開けたのは誰か?-災害の美談が覆い隠す「子どものシェルター」という原則

熊本地震で被災した児童養護施設が、断水のなかで施設の風呂を地域に開放し「支援を受ける側から支援する側へ」という美談として報じられました。しかしその施設は子どもたちのシェルターです。その保護機能を、誰が、何を検討して公開したのでしょうか。そして、そこに颯爽と現れ新たにボランティアを募る民間団体の論理を専門家として問います。最も守られるべき子どもの声は、この美談のどこにあるのでしょうか?
和田一郎 2026.08.16
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はじめに─なぜこの「美談」を素直に喜べないのか?

まずは、専門家として記事を書くべきなのに、私の属性を書くことをお詫びしたい。

私の父方の実家は熊本県であり、親戚を訪ねて八代市にもよく足を運んできました。10年前の熊本地震で私自身も叔母の家の震災泥棒、押し売り販売の被害にあったことの対応などをしてきました。そしてまた熊本にて起こってしまった今回の震災において、この児童養護施設の美談報道は、なんだか苦しく感じました。断水が続くなかで、被災した人々が久しぶりに湯につかり「大の字になって寝られる」と言ったという声(日本テレビ, 2026)をみれば、あの辺りは旧家が多く、地震で一発で水はアウトだなと思うし、今回の児童養護施設のように井戸を持っていて(メンテナンスもしていて)使える状況の家も多くもないことは分かります。そして、何日もお風呂に入れない状況の苦しさも分かります。そのようなこともあり、本論を執筆することに、ためらいがあるのは事実です。困っている人を助けた行為そのものを、後ろから撃つつもりは、まったくありません。

それでも私が書くのは、児童福祉の研究者の端くれとして、この報道が「美談」とされていくことに、危うさを感じるからです。美談は、思考を止めます。「良いことをしたのだから、いいではないか」という空気は、そこで何が検討され、何が検討されなかったのかを、見えなくしてしまいます。今回、私が問いたいのは、支援した人々の善意ではありません。その善意が向かう先に、本来いちばん守られるべき子どもたちがいたのか?、という一点です。そのため、個人ではなく、今回はすべて固有名詞を書かないで執筆しました。

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